バッハ:マタイ受難曲
ゼーフリート(イルムガルト)(アーティスト), ミュンヘン・バッハ(合)(アーティスト), テッパー(ヘルタ)(アーティスト), ヘフリガー(エルンスト)(アーティスト), バッハ(作曲), リヒター(カール)(指揮), ミュンヘン・バッハ管弦楽団(演奏)
・「やはり決定版!」
古楽器による演奏が主体となった近年に録音された、他の指揮者によるマタイを色々聴いてみた。さすがに音は洗練されているものの、何か肝心なところで盛り上がらないという印象をぬぐえなかった。もちろん古楽器のせいではなく、指揮者の姿勢の問題だろう。
リヒターのマタイは、確かに古い演奏スタイルかもしれないが、劇的な盛り上がりと緊張感、聞き終えたあとの感動において、やはりずば抜けていると思う。
・「バスのアリアが絶品」
後半にちりばめられたバスアリアの数々が絶品です。やはりF=ディースカウのうまさは別格で、これを聞いた後ではどのバスを聞いてももの足りません。逆に、バス以外の歌手は、これが最高かといわれると、もっとよいものがあるような気もします。特に有名なペテロの否認のくだりのアルトのアリアなど、私としてはメンゲルベルク版のような粘っこいのが好みです。とはいえ、総合点ではやはりこのリヒター旧版が最高と思います(BCJほかの古楽器によるものは、私にはどうも薄っぺらに聞こえ、好きではありません)。
・「これぞバッハ」
バッハなんて退屈で古臭い音楽だと思っていた高校生のころ、友人に薦められてこのCDを初めて聴きました。
…圧倒されました。なんという生命力。なんという瑞々しさ。なんという緊張感。自分のバッハに対する無知、先入観を恥じました。
作曲者、演奏者の厚く実直な信仰心に満ち溢れ、それでいて実に暖かく包容力のある名曲、名演奏です。音楽を愛するすべての方に聴いていただきたいと思います。
・「バッハのマタイ受難曲での最高の演奏は、今なお、58年録音のリヒター盤だと思っています。」
先日、ヘルンスト・ヘフリガーが87歳で亡くなったという新聞記事を見ましたので、不世出のエヴァンゲリストとしての名声を彼が確立したこのリヒターのマタイを真剣に聴き通しました。生真面目な性格が伺える端正な演奏は、第1級の福音史家と言えましょうし、テノールソロでの劇的な表現力は、リヒターの持っているバッハ観に即したものだと思いました。
オルガニストとして著名だったリヒターが、かくも素晴らしい演奏を31歳の時に残したと思うと、その年代で到達したこれだけの高い精神性に驚かされますし、バッハも42歳という一番円熟した時だからこそこれだけの金字塔とも言える大作を残せたのだと思いました。
アリアとレチタティーヴォがマタイの音楽構造の中心をなすように思えますが、コラールを歌うミュンヘン・バッハ合唱団の素直な発声は、この厳しい受難曲にあって聴くものの救いとなっていますし、その美しい旋律と和声はバッハの残した多くの音楽の中でも輝いている作品群だと思います。
キート・エンゲンは豊かで威厳のある声でイエスに相応しいと思ってきましたが、感情移入する際の音程の揺れ幅が少し気になりました。もっともヘフリガー、ゼーフリート、テッパー、エンゲン、フィシャー=ディースカウ、そしてリヒターと皆30代という若い年齢でこれだけの演奏を残したという功績は忘れてはいけないと思います。
・「リヒターによる究極の名盤!」
わたしなんかがマタイ受難曲を語るなんて非常におこがましいですが(しかもリヒター盤)書かずにはいられないほどです。リヒターの指揮は今更言うまでもないのですが、凄いです。それとヘフリガーが凄い。
・「真の“普遍性”があるとすれば」
己の勝手な“都合”や“思い込み”とは関係無く鳴り響く音楽がモーツアルトならば、(阿呆な)自分は(阿呆な)自分のままでいい、と教えてくれるのがバッハです。
この作品はキリスト教史観を持ち合わせていない私達日本人の胸にも「究極の大衆歌」として深く静かに響いてきます。
そして、イエス最後の言葉「エリ、ラマサバクタニ(主よ、何故私を見放すのか?)」は、あらゆる宗教、人種を超え、私達の真の刹那(せつな)を見事に顕しています。
・「音楽そのものが神になる。」
敬虔な信仰心も持ち合わせず、ドイツ語も分からない日本人ながら、この作品の壮大な世界に魂を解放することができる。
それは、この作品において、中世では神への言葉を辿るための感情的道標でしかなかった音楽(聖歌:ただし歌詞は下々の人間には分からないラテン語)が、神を語る物語を呑み込んだから。
現象に神的な存在を認めるのは、まったく反キリスト教的なアニミズムなんだろうけど、バッハの築き上げたこの形式こそが神のような存在だと言う以外、『マタイ』の放つ神々しさを説明できないと思う。
そして、神のような存在をそのものとして具現化したリヒターは、一大芸術家なのである。
・「記念碑的名演」
この名盤については、語り尽くされている感があるが、あえてこの名盤について一筆。 まず、マタイ受難曲という作品を本当に理解できるのはキリスト教徒だけだろうと思う(カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教を問わず)。やはり、キリスト者でない者は、キリストの受難、というものを肌で感じることは難しいのではないだろうか。自らの信仰と照らし合わせることによって、初めてこの作品への「感情移入」が可能なのではないだろうか。リヒターにせよ、最近の名盤であるコルボにせよ、皆キリスト者である。勿論福音史家を歌っている歌手や、その他のソロイスト、合唱や管弦楽団の面々も皆信仰を持っているであろう。そういう人々は、正に自らの信仰とこの作品を同化して演奏する。日本人が西洋音楽に対する理解が、欧州人に比して浅いのは、そこにも大きな原因が在ると思う(別に私は信仰をもっていない人にマタイのよさが分からぬとか、聴く意味がないとかいっているのではない。聴き方の問題である)。 リヒターのマタイは、その中でも特に信仰心と宗教心、内なるもの(自らの信仰と内省)と外なるもの(神と隣人への愛)に対する求心力が強い演奏であると思う。そこにこの演奏が名盤である理由があるのではないか。そして、このレコードは、何よりも、信仰を持っていない人にまで、「神は存在するのではないか」と思わせる演奏であると思う。人にそう思わせるほど、リヒターは純粋に、神の存在を確信しているのではないか。さもなくば、これほど確信に満ちてこの作品を演奏することは出来ないのではないだろうか。
・「心洗われる奇跡の名演」
「のだめ」で千秋が追憶に浸りながら一人心静かに聴き入っていたのがこの曲で、筆者自身も心落ち着かせる音楽を求めていたので、思い切って聴いてみました。
3時間半にも及び、CDでも3枚セットとなるこの演奏をやりきった方々にとにもかくにも感服しました。しかも最後まで緊張感が漲り、心洗われる音楽を奏でる・・・指揮者、演奏家の解釈、理解、実力。全てのケミストリーの結実が、この名作を生み出したのではないでしょうか。
この名演全てを束ねているのは、バッハ音楽への敬意、そして敬虔な信仰心だと思います。筆者はいずれにも欠けていますが、この名演に対する敬意、感動は筆舌しがたいものがあります。とにかく、じっくりいい音響設備でぜひとも聴いて頂きたい名演です。(これが何十年も前の演奏であること、それもヒトツの奇跡では ないでしょうか)
・「恥を忍んで告白します。」
アタシ、まったくマタイのよさがわからないんです。ぜんぜん感じないんです(と、宇能鴻一郎風に)。
かの高名な音楽評論家、吉田秀和は「マタイのよさのわからない人間は音楽を聴く資格がない」と放言したが、別に吉田秀和の言う通り音楽を聴くことをやめる必要はまったくないと思う。思い上がりも甚だしい(といいつつ、自分も「チャーリー・パーカーがわからなかったらジャズを聴く資格はない!」とか言っているので同じようなものか)。 わたくしはまずこの有名なリヒター旧盤で挫折した。合唱、福音史家の独唱、そしてアリアという形式に耐えられなかったこともあり、そして題材がもろ聖書だということもあり、さらにリヒターの過剰な思い入れもあり、と悪条件の揃ったこのレコード、聴き通せなかった。 バッハの再来、レオンハルト指揮の演奏で何とか聴き通せたものの、マタイのよさは最後までわからずじまいだった。
ということで、本アルバムを論評する資格はわたくしにはありません。ごめんなさい。 ひとつだけ言わせて頂ければ、リヒターで挫折した方は、レオンハルト盤ならば受け入れ可能かもしれない、ということだろうか。
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