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▼なぜ人を殺してはいけないのか? (シリーズ 道徳の系譜):詳細

なぜ人を殺してはいけないのか? (シリーズ 道徳の系譜)

なぜ人を殺してはいけないのか? (シリーズ 道徳の系譜)
永井 均(著), 小泉 義之(著)

▼クチコミ情報

・「きちんと読むと・・・
ここでは小泉義之に関して辛辣な批評が多いので擁護するために書く。小泉は、対談のあとで、なぜ人を殺してはいけないかと問われて、「答えることができなかった」ことにかんして述べている。例えば実際に切羽詰まった人がもう殺すしかない、どうしよう、とたずねたとき、その殺す以外の他の可能性を(それがなくても)言うことが可能だ。つまり殺すことの是非について応答できるのである。なぜ人を殺すことがいけないかということに答えることができないというそもそも成立しない次元を開いた(そんな次元が成り立ちうるという)傲慢さ、のんきさ、(ようするに本当に殺す気がないのに殺すことを哲学とか言って口にすること)について小泉は厳しく批判しているのであって、その点で、永井より小泉はイノセントな倫理学者であろう。永井はそうみると、小泉の言いたいことを理解できない負け惜しみを対談のあと述べているように思える。対談で、だれだれがこういったというカードをいやらしくだしていたのは永井で、小泉はそんなことをしなかった。真摯な小泉に軍配を上げる。

・「永井均ファンは買う価値あり
多くの方が指摘されているように、対談では両者の発言の意図が食い違っている箇所が散在しており対談自体は失敗だと言わざるをえない。

永井均自身は哲学者として、誠実にこの議題について立ち向かっている様子がうかがえたが、果たして小泉氏はそうだったのだろうか? 

少なくとも彼は私の理解している哲学者ではなく、世俗的な倫理や道徳に縛られた思想家にしか思えなかった。確かに、小泉氏の発想は社会的には善良と理解されていて、正しい。誰も異をとなえはしないだろう。だが、敢えて異をとなえてみるからこそ究極的な原理に近づくことができるのではないだろうか?

小泉氏にとっては対談を行う前からどうあろうと、殺人は絶対悪であり議論の余地はないという思想的直感のもと臨んでいたように思える。彼もまた殺人について是非を語ることを禁じてしまっているのだ。しかし、それは本当に人を殺したい人間にはどんな説得も無意味だと永井氏の主張を、肯定しているに過ぎない。

永井氏の対談の相手として小泉氏を選出したことは間違いだったように思える。ただし、個人的にも社会的にも小泉氏が尊き善人だということは明言しておく。

・「読者不在。論理のすれちがい


永井氏、小泉氏の対談から始まった本書は、始めから二人がすれ違って、お互いが自分のテリトリーから出ずに相手を牽制している。武器は専門用語であったり理論のすりかえで、この対談のコーディネーターの苦労だけが想像できる。

「何故人を殺してはいけないか」その質問を提起する行為そのものに残酷者の烙印を押し、詭弁に徹しているだけで明確なかつ客観的な回答になっていない。又、この質問の答えを噛み砕いてもっと平易に説明できてこそ一流の哲学者といえるのではないか感じる。

お互いが相手をやり込めよう(自分の方が上、自分が正しい)とするあまり、一般的な読者や真に論ずべき点が蚊帳の外におかれた印象を受けた。おそらくこの本のテーマは題名とは別のところにあるのではないかと感じる。どちらかといえば「雄弁論、詭弁論」のテキストにぴったりではないだろうか?

・「う〜ん、、、微妙です!
永井均ファン!の僕は、書店で、この本を発見し、即購入!薄いし、すぐ読めそう!実際、2,3時間で、読めますぞ!

感想は、、、う〜ん、おもしろいような、おもしろくないような(笑)

第一章「道徳は殺人を止められるか?」が、永井と小泉の対談です。結論から言うと、ここまで、すれ違った対談は、はじめてです(笑)すれ違いが、半端じゃないです(笑)読んだら、分ります。

永井によると、ニーチェは「人を殺すことで、人生の素晴らしさを感じるのであれば、殺すべきだ」という主張らしいです。「殺してもいい」ではなく「殺すべきだ」です。で、「殺された側の立場に立ってはいけない」と。「相手が、どうなるとか、そういうことを、一切気にしない、相互性を全面的に批判する」のがニーチェだと。なんか、新鮮でした。

そして第二章は、永井による、「きみは人を殺してもよい。だから私は、きみを殺してはいけない」です。書き出しが、おもしろい。

「一般的に言えば、読者を想定してなされる、時間が制限された、この種の対談は、むなしい。相手の発言の真意を徹底的に尋ねる前に、その発言から自分が連想した、自分の考えを語らざるを得ないし、またそれが、期待されてもいるからである」

ほぅほぅ・・・(笑)正直、後半は、難しい話で、僕には、分らなかったんですが、永井均という人間の「大きな特徴」が見えました。永井均っていう人間は、なんていうか、世間で、話題になっている問題に、興味を示しません。テレビや新聞、世間という鎖から、完全に、自由になっていますね。普通の人間は、「問題」を出されたら、一生懸命、「答え」を考えるんですが、永井は「問題」が「本質的か否か」を考えます。「本質的」な問題に対してのみ、「答え」を探ろうとする。

日本人の中で、一番頭がいいのは、永井均だと思ってますよ☆

・「君は人を殺してもいい!?
帯の謳い文句的には「気鋭の人気哲学者によるスリリングな討論」と言うことになるのだろうけれど、今一つ論点が定まらず、行き違いになっている感あり。一つには小泉氏が慎重に真っ向勝負を避けているのが原因だろう。多分34-35ページに書いてあるように、本当はこの人は大江健三郎同様そういう問い自体を封印してしまいたいのだと思う。また、永井も言うように相当同氏の著作を予習して来ているにも係らず、用語の使い方に誤解が見られることから読解力にも問題がありそうだ。第三章の論文も何かまとまりの無い、出来合いの哲学的用語を散りばめた戯言めいていて信用出来ない。簡単に言えばこの人は6の「最初の後知恵」あるように、殺人は問答無用の<絶対悪>や<罪>であり、それについて哲学したり思考したりすることは無駄だといいたいようだ。逆に言えば1から5までの論文は本来の議論とは直接関係ない、不必要な意匠といえる。この人の本音は結局左翼的イデオロギーなのではいかと思う。それを哲学的意匠で飾り立てているだけなのではないか。一方、永井氏の議論は極めて哲学的思考に満ちている。逆説的で今一つ正確に理解しきれないが、永井が言いたいことは次の文章に要約されていると思う(少し長いが引用する)。「他者に対して『これは君の世界なのだよ』と呼びかける時、その時初めて、私はきみを殺してはならない立場に立つのだ。私は、その時だけ、その人の生を手放しで肯定している。きみは何をしてもよい。人を殺してもよい、そうであるからこそ、きみは殺されてはならない、だから私は君を殺してはならない。私はそう言いたいのだ。これがつまり、<魂>に対する態度である。つまり私は、人を殺してはならないという社会規範を一般的には破壊することによってのみ、その社会規範をみずからに受け入れることが出来る。」(H14.4.30)

・「人を殺してはいけないことの傍証は得られる
 論点が多岐に渡り、また全く整理されず混乱したまま書かれているため大変理解しにくい。中でも小泉氏の文章は説明不足はもとより、かなり特殊な、殆んど自分しか理解できないような言葉の使い方をしたり、想像も交えたような文章で、他人に読ませることをまるで考えていない。まさに「自己満足」と言う言葉そのものだ。本書に沿った主張を一つだけ。「人を殺してもいいと主張する者は、自分が殺されても文句は言えない。その人も人だからである。」

・「マッドサイエンティスト対革命家、あるいは宗教家対政治家
 両者の立ち位置が極めてわかる書物、といっていいのだろうか?それぞれの哲学の内容は別として永井が真摯に哲学に捧げる宗教家のような面に対して、治安維持の観点からそれを押し留める小泉といったところか。 あるいは哲学の研究のみに関心をもつマッドサイエンティスト永井と、哲学→革命→哲学としか考えない小泉か。 どちらにせよ好みがわかれる書物。

・「他の日常の命題についても哲学的ヒントを与える良書
この本のサブタイトル(14歳の中学生に何故人を殺してはいけないのですか?と聞かれたらなんと答えますか)を見て自分の子供が成長した時に答えられるようにしようと思い購入した。私のように哲学に精通しないものにとっても心に残る哲学的表現がちりばめられている。2章3章で1章の対談をふりかえりそれぞれの著者が論点を述べている構成はわかりやすい。小泉氏の最後の文章で(殺人が無益で絶対悪であるという提示に理由や根拠を与えてはならない。付与したとたん絶対性は失われる。)とあるし永井氏も善なる嘘は語らない哲学的思考は子供に教えるだけでなく、子供から共に学びたいと記述しているように、哲学的論理は命題を解く入り口であって論理だけで解答はでない。それは他の重要かつ繊細な命題についても言えることで宗教、科学、歴史などあらゆる材料が論理の構築には必要でそれをまとめるのは哲学であるという基本に目覚めさせてくれる良書。 

・「三流ニーチェvs.四流レヴィナス
永井氏の論文が、対談中の小泉氏の主張に対し「意味が分からない」と繰り返すのは、単にトボケているか、やる気が無いだけのように見える。多少クセはあるが、理解不能な話ではなかった筈。だが、ゲーム理論と独我論を絡めたような観点からの倫理学的考察はさすがに精確で、『エヴァ』風の他我問題としても面白い。しかしニーチェが「人を殺すことでしか生を肯定できないなら、殺すべきだ」と言っているのは確かだとしても、その「殺す」論理とは、例えばもし金貸しの老婆が出世の邪魔になっても、ナポレオンなら躊躇なく殺しただろう、といった『罪と罰』的論理だ。なぜ「人」を殺してはいけないのか?という問いは、「人」一般の話であり、その時点で既に「あまりに人間的」な問い。ウィトゲンシュタイン的独我論で、「‘この’私」と、誰もが使える一人称「私」の違いを指摘しても、様々な「‘この’私」が代入される「私」の論理構造の循環の中で、ナポレオンも老婆も均等化されている。これでは永井氏自身がニーチェに殺されかねないだろう。

小泉氏の論文は、「なぜ人を…」という問いを発すること自体、強者の立場を前提にしていると非難するが、強者だからこそ、弱者への責任として問いを発する、という論理もある筈。彼は強者を「奴ら」と呼び、殆ど殺意さえ漲らせるが、これでは自分が引用するレヴィナスの倫理を転倒させているのでは。そもそも議論の発端である少年の発言「なぜ殺してはいけないのか」は、少年にとって強者である筈の大人を前にしての問いだった。彼が一々「銘記」する内容も、主観的で感情的な独断。そのプロレタリア文学的なむさ苦しい主張は、宗教的な説教に達し、殆ど全ての箇所に論理的欠陥が指摘できるほどで、読むに堪えない。対談中はマトモに見えたが、永井氏にレベルを引き上げてもらっていた様子。

第1章と2章★三つ半、3章ゼロ。

・「面白いぐらいに失敗している対談
この本が出版された当時、TV番組で10代の男の子が「なぜ人を殺してはいけないの?」という素朴な問いを発したことで、この問いに答えることが一時的に流行り、そこで、企画された本。…なんだけど、この対話が面白いぐらい失敗していて、失敗ぷりが笑える。

で、結局対談が失敗していることはあからさまなので、「対談後の感想」というのが両者によって長々とその後ろに記されているわけだけど、これが、もう、圧倒的に永井均のほうが頭がよく見える。「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いに対する暫定的な答えを求める人に本書をおすすめしたいとは、かけらも思わないけれども、永井均の好きな人は、一応持っててもいいかもね、っていう感じの本。いやー、でも、この本はよく出版しようという気になったなー。

なぜ人を殺してはいけないのか? (シリーズ 道徳の系譜)
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